産業革命からデジタル社会へ

西尾安裕

本資料は1994年9月27日から29日までの3日間、六本木の「ラフォーレミュージアム六本木」で開催された国際会議DIGITAL CONVERGENCE ’94の講演をまとめた「デジタル社会」(デジタルコンバージェンス’94編BNN出版1995)に寄稿した原稿です。(西尾安裕記)

◆はじめに

飛行機を夢想したギリシャ神話のイカルスの大昔から人間のビジョンが技術を生み、アイディアが加えられ製品化されシステムへと発展し、社会のパラダイムまで変えてきました。

現在、マルチメディアという名のもとに多くの実験が行われていますがその本質に目を向けると「デジタル」という共通の技術が見えてきます。

社会はいま工業社会から情報社会へ向かってデジタル化に収斂(デジタル・コンバージェンス=DIGITAL CONVERGENCE)しつつあります。

コンバージェンスという言葉には一点に集中するという意味があります。

レンズに光を集めて一点に集中させると光が凝縮され熱エネルギーに変化します。

遥か遠くの宇宙から届く微弱な電波をパラボラアンテナで集め一点に収斂させることにより何億光年も離れた星のデータを解析し新しい事実を発見することができます。

デジタル・コンバージェンスとは、マルチメディアという概念で語られている情報スーパーハイウエイ、インターネット、CD-ROM、ノンリニア・ビデオ、バーチャル・リアリティなど私たちの生活に大きな影響を与えようとしている技術の応用分野がデータのデジタル化という一点に向かって収束しているイメージをあらわしています。

いま、いろいろな分野で実験されているひとつひとつの試みがマルチメディアというレンズを通過しデジタルという焦点に集中し凝縮され大きなエネルギーに変換されようとしています。このエネルギーが解放される時、時代は新しい社会へと移行します。それがデジタル社会であり、現代はまさにデジタル社会への始動の時期といえます。

デジタル社会への始動の動きは専門分野、実験的な活動だけでなく私たちの生活に密着したテレビ、通信、ビデオ、ゲーム、出版、流通、教育、経済などあらゆる分野にわたっています。

デジタル社会へのプロセスは、農業社会から工業社会へ移行する過渡期に経験した産業革命と比較すると理解しやすいと思います。

産業革命は約80年続いたといわれています。産業革命を推進した強力な技術革新は蒸気機関の発明と改良でした。産業革命の蒸気機関に比較される技術がデジタル技術です。これを日本の歴史に学べば、幕末から維新を経て達成した日本の近代国家へのプロセスに理解のヒントがあります。

現代社会がデジタル化に収斂したあと、我々の社会はどのように変化しどの方向に向かっていくのでしょうか?

デジタル革命の後に来る情報社会のあるべき姿を哲学、倫理、科学、経済そして広く社会学的な視点から洞察することによって、それぞれの立場、目的に応じて近未来の座標発見のヒントをともに探ろうというのが国際会議「デジタル・コンバージェンス94」の目的です。

そのためには、知識は広く解放され多くの人々に共有されなければなりません。

知識の独占と悪用は多くの差別や不平等、不公正を生み出してきました。

知識の解放と共有は一時的には競争相手を利し、ビジネス・チャンスやマーケットを失うということもありますが、知識の閉鎖と独占はそれ以上に健全な社会の社会の進歩と発展を遅らせてきました。

歴史は、健全な経済発展、社会の倫理的な発展は知識が広く解放され多くの人々に共有され互いに切磋琢磨しあいながら発展してきたことを教えています。

「デジタル・コンバージェンス94」は知識が広く公開され共有される場として、また、豊かで公平で平和な未来社会のためにいささかでも貢献できることを願って、ニッポン放送の開局40周年記念、日本の工業社会の発展に貢献する日本工業新聞、社会人教育を目指してアーク都市塾を開いた森ビル株式会社の創始者森泰吉郎を偲び3社共催の記念事業として1994年(平成6年)9月27日から28の2日間ラフォーレミュージアム六本木で開催されました。

会議では内外の指導的立場の方々が歴史的ともいえる深みのある発表を行いました。本書はその発表内容をまとめたものです。限られた参加者だけのものではなく、広くその成果を共有したいというところから本書がまとめられることとなりました。

世にあふれているマルチメディア関係のビジネス書とはひと味違ったレベルの内容になっていると思います。

1994年12月18日

デジタルコンバージェンス94
プロデューサー
西尾安裕

◆産業革命

月明かりの夜、窓辺で糸を紡ぐ若い娘。
祖母は、暖炉のそばで編み物したり、うとうとしたり。

ペダル踏む娘の足は軽く、糸車は陽気に元気にぐるぐる回る。
娘もつられて歌が出る。

娘よ誰かがノックをしているよ、祖母がいう。
蔦が窓に当たっているの、娘が答える。
誰かの溜息が聞こえるよ、祖母がいう。

ただの秋風の音、娘が答える。

娘の踏み足はさらに強く、糸車は陽気に元気にぐるぐる回る。
娘も歌を口づさむ。

窓の外には恋人の姿。
窓の下からそっとささやく。
仕事の手を休めて出ておいで、
月の光の中、散歩をしよう。

娘はうなづき、出ようとするが
祖母に気遣い、戸惑いためらう。
娘は片足踏み台に乗せ、もう一方は窓のほう。

糸車の勢いおとろえ、ゆっくり回る。
だんだん遅くゆっくり回る。
糸車、さらにゆっくり、動きを止める。

月明かりの林の向こうに二人の姿。

(訳:西尾安裕)

これはアイルランドに古くから伝わる民謡で、糸をつむぐ若い娘がおばあさんの目を盗んで恋人に会いに行く話である。

当時、一台の機織り機を動かすためには8本から12本ぐらいの紡錘を必要としたため、糸の需要は大きく、どこの家庭でも主婦や娘が糸を紡ぐのは当たり前の仕事だった。そのため、「糸車を紡ぐ女」ということばには未婚の娘、婚期を逸した娘という意味がある。

◆産業革命は18世紀後半イギリスの繊維業から始まった。

繊維業の主な仕事は糸を紡ぐ、布を織るという二つの作業だった。産業革命はまず、糸つむぎの効率化と機織りの効率化の追っかけっこという形で進んでいった。

二つの作業は互いに競争して効率化をはかり、機械化されていく過程で多くの発明と技術の改良があった。その結果、一人の人間が従来の100倍、200倍の仕事の量をこなすことができるようになり、その変化の大きさはあまりにも劇的で、革命的でさえあった。

産業革命の時代には、ハーグリーブス、ジェームス・ワット、アークライト、クロンプトン、ホイットニー、フルトン、スチブンソンなど多くの科学者や技術者があらわれ新しい時代に大きく貢献した。

仕事の効率を飛躍的に高め大量生産を可能にしたのが1765年にジェームス・ワットが発明した改良型の蒸気機関(エンジン)であり、蒸気機関は社会のあらゆる分野に浸透し旧来のシステムを発展させその威力を発揮した。生産方法も家庭内手作業から工場生産へと変化していった。

蒸気機関を動かすためには石炭は不可欠だった。石炭の採掘量も急激に増大し、全世界の石炭産出量の半分をイギリスが占めていた時期もあった。

大量生産は多くの労働力を必要とした。作業も熟練を要さない単純なものとなったため低賃金で雇える女子や子どもの労働力が求められた。

◆教区徒弟制度

中世のイギリスには教区徒弟制度という教会の教区を単位としたコミュニティの相互扶助制度が存在した。

教区内の貧しい家庭の子どもや孤児に対して教会が彼らを奉公に出して仕事を覚えさせ、自立を助ける制度であった。徒弟制度の対象は7歳から21歳に及んだ。

しかし、産業革命はこのうるわしい制度を過酷な労働力の供給制度に変えてしまった。

生産システムの革新はより多くの工場労働者、より多くの炭坑労働者を必要とした。

その結果、教区徒弟制度は子どもの労働力の供給源となってしまい、後の工場労働法、少年法成立の遠因となった。

真っ暗な坑内で一日中孤独な作業を強いられる子どもたち。当時炭坑で働いていた8歳の女の子の言葉が残されている。

「くたびれたりしないんだけど、暗い中に閉じこめられるから、ちょっとこわいの。だから、ときどき歌をうたったりする・・・」(同朋出版「産業革命」より)

子どもたちは朝の早い時間から夜おそくまで中には16時間も働かされることもあった。炭坑では4歳の子どもまで働かされていたという記録があるそうだ。

紡績工場でも同じように幼い子どもたちが稼働する機械の間で危険な作業に従事させられた。

◆ロバート・オーエン

産業革命は人類の幸福と進歩に多大な貢献をしたが、その半面、経済の格差や社会の不平等を生み、同時に環境破壊といった弊害ももたらた。

資本家と労働者が分化し階級制度が形成されていく時期、劣悪な労働環境を改善しようと思う労働者がいても、一体彼らに何ができただろうか。

しかし、資本家の中にも産業革命によってもたらされた新しい社会に対して矛盾や社会的不公平、不平等に気づき、それを改めようと行動を起こす人たちもいた。

社会を改革する力は改革をもっともそれを必要とする階級からだけでは生まれてこない。働くもののための社会や生活の改革は、資本家の良心の中からも生まれた。

空想社会主義者といわれるロバート・オーエンはその代表的な人物であった。

ロバート・オーエンはイギリスの産業革命が加速度的に進行し始めた初期の1771年にイギリス北ウエールズで生まれた。彼は最初からの資本家ではなく10歳でロンドンの商店に徒弟として奉公し職をいくつか変えた後20歳で紡績工場の支配人、29歳で自分の紡績工場を経営2,000人を超える従業員を擁する工場へと成長させ資本家、経営者としても大きな成功をおさめた。

しかし、彼が後世に名を残したのは経営者としての手腕や資本家としての名声ではなかった。

ロバート・オーエンは人間の幸福は教育の普及と生活条件の改善にあると信じ、

「人間が人間を隷属させるために社会の富を用いてはならない。あくまでも人類の幸福のために用いるべきである。そのためには社会の生産力の全体が、社会の共有に移されなければならない」

と主張し、自分の工場の労働者に彼の理想を実践していった。

彼は労働者を機械の一部、生産道具として見るのではなく、機械が労働者の生活向上に役立つような社会を建設すべくその実現に向けて行動してきた。彼の社会改革の基本は友愛とヒューマニズムにあった。

彼は自分の工場で労働時間の短縮、賃金の引き上げなど実行、同時に工場内に労働者のための図書室を作り、子弟のための幼稚園を作り、講演会をしばしば催して知識の開発に努めた。また、工場内に学校を作り労働者の教育に力を注ぎ、生活物資の共同購入する生活協同組合をも設けた。

労働者を搾取し利潤の追求という当時の考え方からすれば、異端ともいえる彼の経営方針はかえって労働の生産性を高めることになり企業の利益をもたらすということを証明した。

彼が考え提案し行動した生活協同組合運動、労働組合運動、工場法、社会保障、福祉国家、計画経済体制、都市計画、保育園、幼稚園、労働教育、国民教育制度などの運動は、今ではあたりまえのこととして資本主義、社会主義に関係なく多くの国で実行されている。

ロバート・オーエンが理想として目指した働くもののための福祉社会は「共産党宣言」の著者エンゲルスによって「空想社会主義者」と云われたが、彼の思想や活動が資本主義社会の中で次々に実現されていったのに対して、エンゲルスやマルクスの科学的社会主義は70年の実験の結果消える運命をたどったのは歴史の皮肉か?

◆エンジンが世界を変えた

産業革命の推進の中心となったのは蒸気エンジンの発明と改良であった。

蒸気エンジンはこれまで人間が使ってきた道具や機械と融合することにより時間を縮めたり、スピードを増したり、大量輸送を可能にしたり、生産量を増したりすることを可能にした。

以降エンジンは現在に至るまで工業社会の根幹を支えている。

蒸気エンジンの改良は炭坑や製鉄、繊維産業だけでなく社会のあらゆる分野に浸透し社会全体を大きく変えた。蒸気エンジンは汽車や船など交通輸送手段へも応用され産業革命を地球規模の社会変革へと拡大させていった。イギリスに始まった産業革命はエンジンの技術に支えられ世界を工業社会へと変えていった。

◆日本の産業革命

鯨が日本の目を世界に開いた。

蒸気船は1807年フルトンのクラーモント号がアメリカニューヨークのハドソン川を時速8キロで遡ったのを最初としている。1819年にはアメリカのサバンナ号が蒸気船として最初の大西洋の横断に成功した。

日本の300年の太平の眠りを覚ますきっかけとなったのはアメリカの捕鯨であった。

アメリカでは灯油の原料として主に鯨の油を使っていた。捕鯨業は石油が発見されるまでアメリカ国民の生活を支える重要な生活産業だった。

1820年マサチューセッツ州ブライトンのアメリカ商船が中国からハワイへの航海の途中、日本沿岸でマッコウ鯨の大群を見たと報告。その噂はアメリカの捕鯨業を大きく刺激した。

最初にマサチューセッツ州ナンタケットのマルサス号が来て金華山沖で捕鯨をし好成績を収めた。翌1821年には30隻以上のアメリカ捕鯨船が金華山沖に集まった。

1839年には550隻あまりの捕鯨船が太平洋でマッコウ鯨を追っていた。

1845年捕鯨船マンハッタン号が遭難していた21人の日本人水夫を助け浦賀に入港した。

ペリー来航の頃にはアメリカの捕鯨船は700隻以上でその大半が太平洋上で操業し、日本近海では常時100隻以上の捕鯨船が操業していたといわれている。(日本人漂流記 荒川秀俊人物往来社)

◆日本開国

「日本のねむりをさますじょうきせん、たった4杯で夜も眠れず」

1953年6月アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督率いる4隻の艦隊がアメリカの遣日国使として、日本近海で遭難したアメリカ船とその乗組員に対する保護と薪、水、食料などの供給援助、交易を目的に開国をせまった。

江戸湾浦賀沖に姿をあらわした4隻の黒船は日本近代化の導火線に火をつけた。

黒船の来航は日本のあらゆる社会、階級に大きなショックを与えた。

庶民の間では、黒船を打ち払うための道具として油紙で作った水掻きのついた手袋や、潜水用のマスクなどおよそ実用に向かない商品を売るものがあらわれた。

また、江戸相撲会所は大きな外人に対抗するためには力士の怪力が役に立つだろうと幕府に協力を申し出たという記録もある。

幕府の対応も早く、8月には水戸藩に軍艦の建造を委託、9月には大船建造禁止令を解除、12月には江戸石川島に造船所を起工と新しい時代への手を次々に打っていった。

翌1854年日米和親条約締結。その後、ロシア、フランス、イギリス、オランダ、など各国との条約締結、長崎海軍伝習所の創設、紡績工場の建設、遣米、遣欧使節の派遣など日本の開国と近代化は加速度を増していく。

ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に姿をあらわしたのは嘉永6年(1853)6月3日から12日までの間であった。当時18歳で江戸に遊学していた坂本龍馬は黒船を見るためにわざわざ浦賀まで出向いた。初めて目の当たりにした黒船の偉容を龍馬はどんな気持ちで受けとめたのだろうか?この日の体験は龍馬のその後の思想と行動どれほどのインパクトを与えたのだろうか?。

わづか10日の黒船滞在の間にもう一人浦賀までやってきた若者がいた。吉田松陰23歳、彼の西洋に対する思いは断ち切れず、翌年ペリーの再度来航の際アメリカへの密航を企て、後に安政の大獄に連座し刑死する。その間、彼は松下村塾を開き西洋の知識と日本の未来に対する思いを多くの門人たちに伝えた。

西洋の知識を吸収し、近代日本のデザインに命を懸けた二人の若者は新しい日本の姿を見ることはなかった。

日本の維新革命と近代国家への道を開いた人物のほとんどは、黒船が姿をあらわしたとき10代20代の若者だった。

伊藤博文12歳。日本議会政治の初代首相。

福地桜痴12歳。日本ジャーナリズムの草分け。

渋沢栄一13歳。日本の経済活動の先駆的指導者。

高杉晋作14歳。松陰門下、奇兵隊創設28歳で病没。

坂本龍馬18歳。京都で暗殺、享年32歳。

橋本左内19歳。安政の大獄で慙死、享年24歳。

福沢諭吉19歳。

桂小五郎20歳。

吉田松陰23歳。安政の大獄で刑死、享年29歳。

西郷隆盛26歳。

勝海舟30歳。

黒船とそれがもたらした異国の文明は彼らの人生と日本の未来を大きく変えた。

東京ディズニーランドのなかに、日本と世界との出会いの歴史をアニメーションと人形で紹介していく「ミートザワールド」というアトラクションがある。

最後の場面で坂本龍馬と伊藤博文と福沢諭吉が地球儀を前に登場する。

生まれ変わった日本の姿をこの目で確かめることができなかったとを残念がる龍馬に対して伊藤が

「あなたの無念さは察するにあまりあります。しかし、あなたが青春をかけて成し遂げた仕事は今日の日本の礎となっております。」

と話すシーンは何度見ても感動してしまう。

私はこのシーンを見るたびに、自分たちの夢と理想を日本の未来に託し、その姿を見ることもなく死んでいった松陰、龍馬をはじめとする多くの人たちの夢と志を未来の社会に引き継いで行かなければならないとの思いを新たにする。

◆文明開化と産業革命

1867年大政奉還、1868年9月8日明治元年。

「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」

今でいえばさしずめ「キーボードをたたいてみれば、マルチメディアの音がする」ということか。

日本の産業革命をあらわす言葉としては文明開化という言葉がふさわしい。

ちょんまげから断髪への変化は日本近代化の象徴的な出来事であった。

当時の先進的な人々は競ってちょんまげを切ってざんぎり頭にした。紀州藩で最初に断髪した江戸詰め藩士は無断でちょんまげを切ったということで3日間の閉門を申しつけられたという。

明治4年断髪廃刀令が発せられ明治5年3月には明治天皇も率先して断髪された。

黒船4杯が姿を見せて半年もたたないうちに江戸石川島に造船所が起工され、2年後には海軍伝習所が創設されるなど、日本の産業革命、近代国家への道はイギリスに遅れること約100年、官主導のもとで富国強兵、殖産興業という目的に向かって急ピッチで進められてた。

富国は和魂漢才の故事にならい和魂洋才の知恵を発揮、外国の技術、思想を上手に取り入れ日本独自の文明開化、近代化を進めていった。

日本の産業革命もイギリスの例と同じく近代化の陰で多くの社会的矛盾や不公平を生んだ。日本でもロバート・オーエンの残した志を継いで社会改革をしようと行動をおこした人たちがいた。私の祖父もそのひとりだった。

1887年日本の近代化の集大成として上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会は黒船来航からかぞえて34年目、最新技術の取り込みと工夫が脈々ときょうに受け継がれてデジタル社会に向けて切れ目なく続いていく。

日本は維新と産業革命を同時に経験し「富国強兵」を目標に官民挙げて近代国家へと転換していった。工業化社会の発展は必然的に資源の確保と市場の拡大を求める。日本は小資源国であるため資源の確保は国家的課題であった。

明治以来の日本のもうひとつの国家政策「強兵」は、軍事力を強め知恵より力に頼る国家体制を選択し、資源確保のために武力を持って海外に進出し、あの不幸な太平洋戦争を起こし昭和20年に国を滅ぼした。

◆デジタル社会へ

私たちはいま工業社会からデジタル社会への移行の最中にある。

デジタル革命がいつ始まったかの論議は後世の歴史家に委ねるとして、産業革命の時代の機械と同じように、デジタル革命ではコンピュータが重要な役割を果たしていることは異論のないところである。

デジタル革命の兆しは1960年代ごろから見られる。

1961年アメリカ国防省が国防政策の計画の立案、予算管理のための意志決定合理化システムとして導入した任務別計画予算システム(Planning Programing Budgeting System)もそのひとつである。

PPBSはコンピュータを従来の電気的な高速計算装置から、人間の思考の延長として物事の判断、決定を下すための情報処理システムへの転換をはかったということで画期的な事例であった。このシステムはその後政府の他の機関や民間にも応用され経営管理システムへと発展していった。

◆日本ではどうか?

私は日本のデジタル革命の兆しは1970年代に経験した2度の石油ショックにあると考えている。

石油資源確保のため武力による解決を求めた日本は、昭和20年にすべてを失った。

それから30年、日本は再び石油資源確保の道を閉ざされる危機に遭遇した。1973年と1979年の2度にわたる石油危機である。

1970年代、社会の中核となって日本を支えていた人々は太平洋戦争をはさんで多感な幼少年時代を過ごしている。

彼らは子ども心に戦争の悲劇、物資不足による不便さ、ひもじさ、惨めさを身を持って体験してきた。また戦後の体制の変更による価値観の急激な変動に直面した。

日本にとってオイル・ショックは、太平洋戦争の悪夢の再現であった。

武力による解決策が何の解決にもならないことを経験している日本にとっては、この石油危機を乗り越えるために、国をあげて知恵と技術に結集した解決策に取り組んだ。

結果的には日本は石油危機という災いを知恵と技術でカバーし技術立国としての国際的地位を確保した。

1970年代の危機を必死の思いで乗り切った彼らの技術の開発と蓄積がきょうのデジタル社会のへの基礎となっている。

◆デジタル社会が目指すもの

1994年9月27日、28日の2日間にわたってラフォーレミュージアム六本木で開催したデジタル・コンバージェンス94には一般公募と先生のご推薦あわせて約100人の大学、専門学校の学生諸君を特別に招待し会議に参加してもらった。

学生諸君の参加はこの会議では特に重要な意味を持っている。

デジタル革命はやっとその端緒についたとするならばデジタル社会建設の主役は彼ら若い人々である。そして未来の社会を享受するのは現在のこどもたちとこれから生まれてくる次の世代である。

デジタル社会への始動を共に共有し、我々が願っている豊かで公平で平和な未来社会の建設を引き継いでもらいたいという願いが込められている。

これからもできるだけたくさんの若い人たちに参加してもらいたいと思っている。彼らの中から未来に向けて多くの科学者、技術者、哲学者、芸術家、社会改革者、福祉家、未来のロバート・オーエンや坂本龍馬をはじめとする多くの若い人材が育ってくれる事を願っている。

産業革命は18世紀後半から約80年の時間をかけて農業社会から工業社会へと移行していった。日本ではそれから約100年遅れて始まり明治維新と産業革命のの二つの革命を同時に経験した。

これから迎えるデジタル社会がどんな社会なのか?未来のことは誰にも断定できない。しかし、これまでに経験したことのないような劇的な大変化が起こるだろうということだけは衆目の一致するところである。

デジタル革命はいま始まったばかりの社会変革で10年や20年で達成できるものではなく何十年にもわたって続く世代を超えた大事業だ。

デジタル革命のあとに来る近未来社会が人類に恒久的な平和と豊かで公平な生活をもたらす社会であるためには、過去の歴史の大きな変革が多くの先達の夢と志に支えられて成就されてきたように、新しい時代の創造は現在の社会の中核をなしている人々の知恵と知識と経験、これからの若い世代の理想と情熱と行動力が世代を超えて融合協力しあって築いていかなければならない。(了)

(「デジタル社会」1995年3月BNN出版)

<参考資料>

資料・DIGITAL CONVERGENCE<1994~1997>(別添)