「デジコンサロン誕生の経緯」
~デジコンサロン15周年に寄せて~

西尾安裕(デジコンサロン共同世話人代表)

デジコンサロンはこの5月で15年目を迎えました。開催回数は140回。15年という歳月は振り返って見ればあっという間の時間でしたが、「よくも今日まで続けて来られたなあ!」と思うのは創立当初の世話人やメンバーの共通の実感ではないでしょうか?

これもひとえに、快くスピーチを引き受けて下さった講師の皆さま、会場を無償でご提供いただいた学校や企業のご関係者、いつも熱心にお話を聞いてくださった参加者の皆さまそしてサロンを裏で支えてくださった事務局をはじめ世話人の皆さまのおかげです。心から感謝申し上げます。

「ありがとうございます。」

デジコンサロン誕生15周年に寄せて、サロン誕生の経緯とサロンを今日まで支えてくださった人々の共通の思いを遺しておきたいと思います。

サロン誕生のきっかけはさらに5年遡った1991年の第1回マックワールドエキスポ東京の開催にあります。1991年当時、私はプロデュサーとしてマックワールドエキスポ東京の日本開催を実現し、コンファレンス部門のプロデュースを担当しました。おかげさまで第1回の開催はコンファレンス、展示会ともに大成功を収め、日本をデジタル社会へ向かって加速させる象徴的なコンベンションとなりました。

私はコンピュータに対してはハードや技術の開発よりも、社会的、文化的側面により深い関心を持っていましたので、次のステップとしてハード中心のイベントではなく、デジタル社会が実現した後の社会改革や文化の創造に寄与するためのビジョン作りと、それに必要な技術やソフトの開発を中心にした議論の場を設けたたいと考えていました。そういう思いをことあるごとに会社の同僚や知人や友人に話していたところ賛同してくれる仲間も増えていきました。そして、1994年9月森ビルとコンパックのご協力を得て、森ビル、ニッポン放送、日本工業新聞主催の第1回デジタルコンバージェンスの開催を実現することができました。(資料1)

マックワールドエキスポ東京やデジタルコンバージェンスのような国際的なコンベンションは、最先端の技術や知識を広く知らせ、みんなで共有するためには効果的な方法ではありますが、世界の最先端で活躍する研究者や技術者をお招きしたり最新の設備を用意するための費用を考えると、どうしても参加費が高くなり、未来の社会で中心的な役割を担ってくれる企業の若い社員や学生が参加するには難しいという矛盾を抱えています。しかし、新しい時代の担い手である若い人たちには是非とも参加してほしいと思いデジタル・コンバージェンスでは毎回100名の学生を無料でご招待することができました。

デジタルコンバージェンスには日本だけでなく、アジア、アメリカ、ヨーロッパからもデジタル社会の最先端で活躍する方々が集まり、多くの事例を紹介し未来社会を熱く語ってくださいました。モバイル端末のはしり、シャープのZaurusを使って屋外から通信衛星を介して、ワイアレスで会場のPCに接続するという公開実験をしたのも世界で初めてのことではないかと思います。

ジュラシック・パークの作者マイケル・クライトン氏はデジタル・コンバージェンスの主旨に賛同し1995年にデジタル・コンバージェンスでの基調講演だけのために来日してくれました。オープニングの基調講演ではデジタル社会での教育の大切さについて「インターネットは多くの知識を与えてはくれるが、その知識をどう生かしていけばよいかまでは教えてくれない。だからこそ、デジタル社会では教師と生徒が直接触れあう学校教育がますます大切になってくる」とスピーチしてくださり、基調講演のあとも最後まで会場に残り全セッションを聴講されました。

クライトン氏の講演の準備とリハーサルは大学院学生たちがサポートしてくれました。後日、クライトン氏来日のきっかけを作ってくれたアメリカの友人が、「クライトン氏が何よりも驚いて気に入ったのは会場の雰囲気だった。Tシャツ姿の学生と背広にネクタイのエクゼクティブなビジネスマンが一緒になって、熱心に話を聞いているコンファレンスに参加したのは初めての経験だったと話していた。」とのことでした。

私はマックワールドエキスポ東京とデジタル・コンバージェンスという国際的なコンファレンスのプロデュースを通して、デジタル社会の最先端で活躍する世界の多くの方々と知り合う機会を得ました。彼らの話はいずれも新しい時代を予感させる最新の知識や夢に満ちていました。そして、彼らの話を私だけが聞くのはもったいない、もっと多く人に聞かせてあげたい。特に若い人たちには彼らの知識や情熱を共有してもらいたいという思いが強まるばかりでした。そんな気持ちをコンファレンスのスタッフや仲間たちに話したところみんな大賛成してくれました。

特に三谷清さん(故人)と藤井正博さん、松木英一さんが強く背中を押してくれました。デジコンサロン構想のスタートです。

当時、MACLIFEの編集長を退任された高木利弘さんが、世話人代表をつとめてくれることになりました。高木さんが多忙になられたこともあって途中から私も共同世話人代表になりました。遠藤秀昭さんは第1回から今日まで事務局長を務めてくださっています。マックエキスポ東京とデジタルコンバージェンスのスタッフや二つのコンファレンスを通じて知り合った仲間が、いまも世話人としてサロンの運営をサポートしてくれています。

会の命名を「デジコンサロン」としたのは「デジタル・コンバージェンス」がめざした「デジタル・テクノロジーは、私たちの未来をより良い社会にするために活用されるべきだ」という考えに基づいています。

こうした考え方に共感する人たちが相集い、講師の方々と参加者が一緒に知識を共有しデジタル社会の夢を自由に語りあい、夢の実現に向かって少しでも前進したいという願いを込めました。

デジコンサロンの運営はコントリビューション(注1)で成り立っています。

デジコンサロンではスピーチをしてくださる方、会場を提供してくださる学校や企業、会場での準備や後かたづけを手伝ってくださる参加者の皆さん、世話人や事務局もすべてコントリビューションです。

会場は第1回から15回までは「六本木コンパックメディアサロン」以降、「六本木AXIS」「デジタルハリウッド」「メディアネットワーク」「日本デザイナー学院」「デジタルハリウッド大学大学院」などの企業や学校のコントリビューションです。(資料2)

第1回のデジコンサロンは1996年5月23日(木)、六本木のコンパックメディアサロンで開催されました。スピーカーはいまも世話人をつとめてくれている池田将さんです。

最後に、デジコンサロンの集いが、デジタルテクノロジーが人々の社会的、経済的格差を広げるために使われるのではなく、人々が平和で幸福に暮らせる公平な社会、また、現代の大量生産、大量消費、大量廃棄社会を増大させるために使われるのではなく、エコロジカルな循環型社会(デジコロジー社会)を実現させるためのきっかけとなってほしいと願っています。(資料3)

(注1)コントリビューション
私が「コントリビューション」という言葉に強い印象を持ったのは、1975年に環境問題や社会活動について勉強するために訪米し何人かの活動家に会った時に彼らが共通して口にした言葉でした。普通の日本の感覚ではDonationやvolunteerという言葉を使うシーンで彼らは「コントリビューション」という言葉を使っていました。初めは意味がよくわかりませんでしたが、だんだんに雰囲気を理解することができるようになりました。私がコントリビューションという言葉につけた訳と意味は以下です。

Contribution = 「役務提供」
自分が持っている力や能力、時間、知識、技術、経済的余裕などを自分のためではなく、自分以外の人や社会のために提供すること、でした。(了)

2010年6月10日

<参考資料>
(資料1) デジタルコンバージェンスの意義とテーマ/スピーカー・リスト
(資料2) デジコンサロンのテーマ/スピーカー・リスト(#1~#140)
(資料3) 産業革命からデジタル社会へ